May 23, 2009

海外旅行保険安心の旅を

海外旅行に行くときに準備することだとすると、まず、パスポートは必需品なので当然ですが、そのほかにも衣料品やお金など、多くのものがあります。そんな中、忘れがちなのが海外旅行保険です。小旅行はよく忘れがちな海外旅行保険だが、海外では、いつどのような問題に対応するか不明です。もし問題があった後、慌てても仕方がないので常に準備して海外旅行に出かけましょう。
親戚が会員制リゾートホテルに勤務しているので、私も会員制リゾートホテルに何回か宿泊したことがあります。先に行ってみる驚くべきことは、従業員の質の高さです。駐車場のご案内からチェックインまで、どの従業員も丁寧な対応をしたため、非常に好感を持つことができた。次の部屋の大きさに驚きました。会員権の価格に応じて使用する部屋のサイズに差がその中でも評価が低いタイプに宿泊しましたが広くて快適な部屋でした。食事も良く、会員権をまともな価値があると感じました。
 アメリカンホーム保険は15日、過去に取引があった代理店から、顧客情報3718件が名簿業者に売却されていたことが判明したと発表した。

 アフラックでも同じ代理店から契約者情報1万2902件が不正に売却されており、情報流出は計1万6620件に上っている。

 アメリカンホーム保険によると、流出したのは契約者らの名前や住所、電話番号などで、2009年10月まで取引していた代理店の元社員が不正に持ち出し、名簿業者に売却した可能性が高いという。同社は警視庁に通報し、「捜査に全面的に協力する」としている。

 「私たち戦没者の遺族が歩んだ道のりは、長く苦しい歳月でした」。全国戦没者追悼式に参列した約5000人の遺族代表を務めた河西佐智子さん(67)=甲府市=は参列者の思いをこう代弁した。貧しいながらも、母一人子一人で戦後を生き抜いた思いを追悼の辞に込めた。

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 「生活は苦しくても、一生懸命生きることが父の死に報いることだと信じてここまで来た」。河西さんは自らの人生をこう振り返る。海軍兵曹長だった父、東(あずま)さん(享年27)=写真=は1944年10月、航空母艦「千代田」乗艦中、フィリピンのレイテ沖海戦で戦死した。当時、佐智子さんは生後2カ月。父の記憶はないが、95年に亡くなった母、と志えさん(同73)からは「出征前、生まれたばかりのあなたを抱いて、とても喜んでいた」と、父の様子を聞かされた。

 と志えさんは、女手一つで佐智子さんを育てた。昼は製糸工場で働き、夜も自宅で縫い物をして学校の給食代などに充てた。生活は苦しかったが、洋服や帽子は全て母の手作りで、いつもおしゃれなものを着せてくれた。「父親のいない寂しさを感じないくらい、精いっぱい育ててもらった」と感謝を口にする。

 と志えさんの死後、タンスの遺品を整理した時、古びたせっけん箱から偶然、戦地の父が母に送った手紙11通が見つかった。「佐智子の経過はいかがですか」「軍人の妻らしく、強く、より強く立派に家庭を守ってくれ」−−。茶色になった便箋には、家族への思いが何枚にもわたってつづられていた。末尾には「最愛なる妻へ」とあった。

 「結婚して1年で夫を亡くし、苦労ばかりだった母も、父の優しさに触れて幸せを感じることがあったのかもしれないと思うと、少しほっとした。手紙を私にも見せなかったのは、夫婦だけの大切な思い出としてしまっておきたかったのかもしれない」

 佐智子さんは現在、夫と3人の子供、6人の孫に恵まれ、穏やかな生活を送っている。「父たちが身をもって築いた平和がこれからも続いてほしい」と静かに話し、「私も一度でいいから『お父さん』と呼んでみたかった」と涙ぐんだ。【佐々木洋】


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 大畠章宏国土交通相は15日の閣議後記者会見で、八ツ場ダム(群馬県長野原町)の建設予定地付近の図面資料公開をめぐる訴訟で、国に開示を命じた東京地裁の判決について控訴しない方針を明らかにした。同相は「判決に従い、速やかに図面を開示する所存だ」と述べた。
 訴訟の対象となった資料は、利根川下流の流量を計算する「流域分割図」など。自治体による建設負担金の支出差し止め訴訟の弁護団が昨年7月、国交省が算出した最大降雨時の流量を検証するために公開請求したが、一部黒塗りにして開示され、不開示部分の公開訴訟を起こした。
 訴訟で国は、図面開示により、地域住民らに混乱が生じたり、不適正な土地取引が助長されたりする恐れがあると主張。これに対し、東京地裁は「施設周辺の土地を購入できるほど正確な図面とは認められない」として開示を命じた。 

 8月15日には3冊目の戦争体験集を出すはずだった。岩手県釜石市の市平和委員会会長を務める前川慧一(けいいち)さん(73)は、09年から毎年「戦争体験集・私の八月十五日」を出版してきた。だが、3月11日の津波で自宅は全壊。編集を進めていた原稿も流されてしまった。

 釜石市は終戦間近の1945年7月14日と8月9日、米英軍から2度にわたって艦砲射撃を受けた。750人余の死者を出した悲劇の記録や検証が不十分だと感じ、体験集の編さんを始めた。活動は広がりをみせ、03年から市民が戦争体験を語り合う平和集会を開催。市戦災資料館も昨年、完成した。

 自宅があった鵜住居(うのすまい)町は、市内で最も津波の被害が大きかった。家々が土台から流され、がれきが積み重なる風景に、終戦後、朝鮮半島から引き揚げる途中で見た広島と東京の焼け野原が重なった。

 資料館は津波で流されたが、体験集を途絶えさせるわけにはいかない。記憶を頼りに寄稿してくれた人を訪ね歩き、改めて原稿を依頼した。弟の1人をパプアニューギニアで、もう1人を釜石の艦砲射撃で失った91歳の男性は、原稿を書きかけたまま、津波で亡くなった。「戦後をここまで生き延びたのに。悔しいね」。思わずつぶやいた。

 津波で被災した街と戦後の焼け野原には違いも感じる。終戦直後の上野駅では、子供と大人が小さなおにぎりを奪い合っていた。「一緒に連れていって」と哀願した孤児を連れていくことはできなかった。忘れられない記憶だ。震災後の今は、被災地に全国からボランティアが集う。黙々とがれきを片付ける若者に「世の中を切り開く希望を感じた」。悲劇の中に、人の絆を見つけた。

 仮設住宅に身を寄せながら、戦争と同時に津波体験の聞き取りを進める。来年の3月11日に津波の、8月15日には仕切り直しの戦争体験集を発行するつもりだ。命を守るため、戦争も津波も語り継ぐ。「誰もが人間らしい生活を送れる世の中にしたい」。それが願いだ。【喜浦遊、田辺佑介】

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